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明日は交地ですね!!ネットも現実もウィルスが蔓延していますが、皆さん体調にはどうかお気をつけて…!!ちなみにうちのサイトは大丈夫っぽかったです^^そして体調も良いです。寝不足と変にハイだったりローだったりはするのですが、基本的には(脳味噌以外)何処もおかしくないみたいですよ!えへ!!
そして、明日交地だってーのにヘタリアのまるかいて地球日本verと、イギリスverを聞いてしまいました…おいこれ三国志でやろうぜ(自重しなさい)。
最近なんでも面白い物があると三国志にしたくなる病気です。豚インフルは弱毒性ですがこれは強毒性です。
そして昨日ようやく現代あとこめを更新しました。まだ始まったばかりですが、これはまた私だけ楽しいなあと思いながら書いてました。頭の悪い子書くの大好きです。元ネタを書き忘れましたが、三原ミツカヅ先生のハッピー・ファミリーだったりします。そのまんまだね!!
最近気づいたのですが、私は人の欠点が好きなようです。いいとこよりも悪い所に惹かれるみたいです。悪いところと言うと、自分の価値観に従って嫌だと思う点ではなく、社会的な観点から見てよろしくない人間が好きみたいです。適応力のない人というか、なんとなくみんなで居ても浮いちゃうようなキャラが好きっぽい。
だからおかしい孔明さんやら擦れちゃった劉備殿やら宗教家なギルやら天才な巧やらが好きみたいです。
どうでもいい話ですが、共和制ローマの時も最初はキリスト教が受け入れられなかったという話を高校のときにやったのですが、教員の方が説明してくれたお話ですと、「自由という信仰のなかで、一つのものだけを信じろって言うのは異端だから」だそうです。
現代も同じだよなあと思うんですがどうなんだろ。今、駅とかでキリスト教の布教活動やってる人が「怖い」と思ったりする感覚はそういうことなんじゃないかなーとふと思いました。無宗教、とか言いながらも信仰心ってのはそういう形でいつの時代にもあるんじゃないかなーとバイトの時間に哲学してみたりしました。仕事しろよ。
ホウ馬に関しては、ホウ徳殿が馬超に何か神聖なものを見てしまったというか、馬超に自分の理想のようなものを見てしまい、ありのままの馬超を見ようとしないところがあるんじゃないかな。どうでもいいですが、私「ありのまま」という言葉がなんか嫌いです。よくわかりませんが変に安っぽく感じてしまうというか、薄っぺらい言葉のような気がしてしまうのです。話それましたが、馬超は、ホウ徳殿を普通に尊敬していると思います。たくさんの大人たちの中の一人のように、父を尊敬する気持ちよりももう少し素直に尊敬しているという感情をぶつけられる相手だと思います。まっさかホウ徳が自分をそんな偉い人のように思ってるなんて馬超は知らないし、思いもよらないだろうから、ホウ徳が馬超に絶望したときだってきっと気づかない。知らないうちに理想を押し付けられて、勝手に裏切られたとかそんな顔をされて、きっと馬超びっくりすると思う。ホウ徳殿はきっとギリギリまで自分の気持ちを言わないだろうから、別れ話を切り出したときにその話をして、馬超を驚かせると思う。
ホウ馬は、最終的にホウ徳が馬超がどんな人だったか知ることができればいいと思う。
最後に、ハン城で「今、西涼の夢を見申した」といったあの時に、彼が殉死ではなく自殺なんだ、と罪を悟るような終わりになればいい。馬超がそれに気づくのは、ホウ徳がずっと死んだあとで、なんてことない日にふとそれに気づけばいい。その時初めてお墓参りするとか、そういうお話が書きたい。
ホウ馬は、soadのチョップ・スイ!ていう曲がすごくそれっぽい。
なぜ交地で孔明受けスペース回るぜ!と意気込んだところでホウ馬の話しちゃったんだろう…わけわからないです。
もし、明日交地にお越しになる方がいらっしゃいましたら、一般参加者でなんかとても小さい妙にハイなセミロングが居たらきっとそれは私ですので、よろしければ声をかけてやってください。多分、皆さんが思っているよりこいつさびしがりなんで凄く喜びます。
そして、明日交地だってーのにヘタリアのまるかいて地球日本verと、イギリスverを聞いてしまいました…おいこれ三国志でやろうぜ(自重しなさい)。
最近なんでも面白い物があると三国志にしたくなる病気です。豚インフルは弱毒性ですがこれは強毒性です。
そして昨日ようやく現代あとこめを更新しました。まだ始まったばかりですが、これはまた私だけ楽しいなあと思いながら書いてました。頭の悪い子書くの大好きです。元ネタを書き忘れましたが、三原ミツカヅ先生のハッピー・ファミリーだったりします。そのまんまだね!!
最近気づいたのですが、私は人の欠点が好きなようです。いいとこよりも悪い所に惹かれるみたいです。悪いところと言うと、自分の価値観に従って嫌だと思う点ではなく、社会的な観点から見てよろしくない人間が好きみたいです。適応力のない人というか、なんとなくみんなで居ても浮いちゃうようなキャラが好きっぽい。
だからおかしい孔明さんやら擦れちゃった劉備殿やら宗教家なギルやら天才な巧やらが好きみたいです。
どうでもいい話ですが、共和制ローマの時も最初はキリスト教が受け入れられなかったという話を高校のときにやったのですが、教員の方が説明してくれたお話ですと、「自由という信仰のなかで、一つのものだけを信じろって言うのは異端だから」だそうです。
現代も同じだよなあと思うんですがどうなんだろ。今、駅とかでキリスト教の布教活動やってる人が「怖い」と思ったりする感覚はそういうことなんじゃないかなーとふと思いました。無宗教、とか言いながらも信仰心ってのはそういう形でいつの時代にもあるんじゃないかなーとバイトの時間に哲学してみたりしました。仕事しろよ。
ホウ馬に関しては、ホウ徳殿が馬超に何か神聖なものを見てしまったというか、馬超に自分の理想のようなものを見てしまい、ありのままの馬超を見ようとしないところがあるんじゃないかな。どうでもいいですが、私「ありのまま」という言葉がなんか嫌いです。よくわかりませんが変に安っぽく感じてしまうというか、薄っぺらい言葉のような気がしてしまうのです。話それましたが、馬超は、ホウ徳殿を普通に尊敬していると思います。たくさんの大人たちの中の一人のように、父を尊敬する気持ちよりももう少し素直に尊敬しているという感情をぶつけられる相手だと思います。まっさかホウ徳が自分をそんな偉い人のように思ってるなんて馬超は知らないし、思いもよらないだろうから、ホウ徳が馬超に絶望したときだってきっと気づかない。知らないうちに理想を押し付けられて、勝手に裏切られたとかそんな顔をされて、きっと馬超びっくりすると思う。ホウ徳殿はきっとギリギリまで自分の気持ちを言わないだろうから、別れ話を切り出したときにその話をして、馬超を驚かせると思う。
ホウ馬は、最終的にホウ徳が馬超がどんな人だったか知ることができればいいと思う。
最後に、ハン城で「今、西涼の夢を見申した」といったあの時に、彼が殉死ではなく自殺なんだ、と罪を悟るような終わりになればいい。馬超がそれに気づくのは、ホウ徳がずっと死んだあとで、なんてことない日にふとそれに気づけばいい。その時初めてお墓参りするとか、そういうお話が書きたい。
ホウ馬は、soadのチョップ・スイ!ていう曲がすごくそれっぽい。
なぜ交地で孔明受けスペース回るぜ!と意気込んだところでホウ馬の話しちゃったんだろう…わけわからないです。
もし、明日交地にお越しになる方がいらっしゃいましたら、一般参加者でなんかとても小さい妙にハイなセミロングが居たらきっとそれは私ですので、よろしければ声をかけてやってください。多分、皆さんが思っているよりこいつさびしがりなんで凄く喜びます。
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